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ここはタイの軽井沢、カオヤイ。

高級別荘地も、リゾートホテルもあるが

私たち家族がいるのは

宿泊して瞑想ができる環境があり、

野菜や果物などの農園もある

ライトハウスという瞑想修行場。

 

今、その一角でタイ人の主人がきのこ栽培を

私はタイ仏教に関する本や資料の日本語訳を

そして1歳8か月になる息子3Gは

無邪気にこの自然を駆け巡っている。

 

2015年9月末。

私は5年間、主人は6年間お世話になった

マヒドン大学宗教学部の教員を辞めた。

 

タイで大学の先生になるとは、

夢にも思わなかった。

マヒドン大学はタイで有名な良い大学。

美味しい思いもたくさんさせてもらい

多くの人とのつながり、深い縁も紡がせてもらった。

 

ただそのいい場を手放して

家族で次のステップへ。

 

今年の振り返りもかねて

整理して残しておこうと思う。

 

タイの大学で先生に~お坊さんに学んでいたのに、お坊さんに教えるとは!~

 

大学時代にはじめてタイを訪れてから23年。

タイの仏教やお坊さんの研究をはじめて

その分野でずっと学んできた。

研究という方法で大学院や大学での非常勤

研究所といったところに籍を置きながら

タイとのつながりは続けていた。

6年前東京にいた時

ちょっとしたご縁からこの大学に誘われう

外国人教員としてタイ人の学生たちに

大乗仏教や日本の新宗教

生と死に関する授業を担当することに。

 

小さな学部ではあったが

学生の中には在家の学生さんと一緒に

若いお坊さんの学生も1-2割はいる。

 

お坊さんに学んできた私が

若いお坊さんたちの前で教える立場になろうとは!

 

だがこれがまた面白い。

タイの学生たちはほとんど日本への憧れを持っている。

規律正しく、真面目で

いいものを提供するすばらしさを

モノやテレビなどの情報から実感しているのだ。

ちなみに

アニメオタクは学年に最低1人はいた

(笑、さすがにお坊さんはいませんが)。

それだけ日本のことを知りたがっている。

 

ただ私が担当する宗教の分野になると

とたんにタイの仏教との違いが明確になり

ほどんとの学生が驚く。

「お坊さんは、お酒を飲んでいい」

「お坊さんに、奥さんがいる」

という事実だけで目を丸くする。

 

同じ仏教といっても

タイの上座部、日本の大乗では

そのあり方は全く違う。

 

彼らの驚き、そして鋭い素朴な質問

それらを通して私も日本を改めて学びなおす。

そんな日々の5年間だった。

 

タイ人社会の一員になる~まさかタイ人と結婚するとは!~

 

こうして日々の授業や

学生たち先生たちとのふれあいの中で

お客さんとしてではない

タイ社会の一員として入っていくことになった。

 

ただ最も大きな出会いは

同僚として同じ学部で働いていた主人との出会いだ。

当時、3人の先生が同じ研究室に席をおいてのスタイルで

彼はそのうちの一人。

もう一人は、非常勤で週1回しか来ない

おじいちゃん先生。

なので普通は大部屋に私と彼しかないので

自然といろいろ助けてもらっていた。

 

最初はわからなかったのだが

学部が持っている宿舎も同じ建物だということがわかり

だんだん仲良くなり

深い対話も共有できるように。

 

これまた最初はわからなかったが

彼も私と出会う1年前までは

お坊さんとして18年間出家生活をしていて

パーリ語に関してはとても詳しく

仏教についてもいろいろと話が合った。

 

さらに彼の田舎は

私がお坊さんの調査をしていた時の村と

そんなに離れていないところの出身。

その他もろもろ不思議な縁に導かれて

結婚という流れになった。

 

タイ人との国際結婚で、彼はしかも6つ年下。

さらに超田舎の出身だから、お金持ちでもない。

私は39歳のアラフォー。

結婚できるなんて思っていなかったが

彼の両親や家族、私の母や妹家族友人たちなど

私たち以上に喜んでくれた。

 

さらに41歳で息子を授かった。

しかも誕生が、4月8日のお釈迦さまの誕生日とされる日(タイは違うのだが)。

なんかもう自分という小さな力ではない

大きな流れの中で役割を果たせと言われているようだった。

 

社会の時間ではなく、いのちの時間に合わせたい~子供の存在~

 

子どもが生まれてからも

大学での仕事はすぐに復帰できる環境にあった。

マヒドン大学は大きな病院をいくつも持っていて

その中にある託児所に子供を預けることができたからだ。

 

先生たちもとても親切で

私のはじめての育児をたくさんサポートしてくれた。

 

宗教学部のスタッフさんたちも

子育て経験者が多く

妊娠中から出産後まで

いろいろとアドバイスを下さった。

 

私はタイのローカルな私立病院で出産。

先生も看護師さんも新設で

設備もサービスも整っていて安心して

出産することができた。

 

田舎から手伝いに来てくれた主人の母も

サービスの良さに驚く。

地方の公立病院はそれこそ家族や親戚が

泊まり込みで付き添いをすることが

暗黙のルールらしい。

それが全然必要ないほどのサービスだったので

義母はそのことを今でも

村の人々に自慢するらしい。

 

そうして私の母親業。

おっかなびっくりに始まる。

 

主人もおっかなびっくりながら

一生懸命やってくれるので

今や完全に息子はパパっ子だ。

 

異国での子育ては大変でしょうとよく言われるが

タイの人たちは幼い子供を見ると

すぐに笑顔になったり、話しかけたり

大変そうにしていると

知らない人でも手伝ってくれるので

その温かさに大いに助けられている。

 

なので、身体的にはしんどいこともあるが

精神的にはとても支えてもらっている。

 

しかしだんだん子供の成長を見守るに連れて

急いで保育園に預けて大学に行き

決まった時間に迎えに行くということに

なんだか違和感を覚えてきた。

 

子供はそんな大人の時間などお構いなしの存在。

 

社会の時間を身につけることは大切だが

この大切な幼少期には

むしろ大人の方が

彼らのいのちの時間に合わせることの方が

必要なのではないかと感じるようになってきた。

 

社会の時間を身につけるのは

もう少し大きくなってからでも遅くはない。

 

どうせ学校に行くようになれば

いやが応でも時間を守るように指導される。

 

だが子供の時間の流れに沿いながら

親の方が時間を調整できるのなら

「社会」という枠を超えた学びができる

という直感があった。

 

子供のいのちの時間に寄り添いたい。

そんな思いも芽生えてきていたのだった。

 

 

キノコをつくって森のニワトリになりたい~主人の夢~

 

子供が生まれてから特に

夫婦の間で今後の生き方について話し合うようになった。

 

確かに大学は安定しているし

毎月の給料もある。

何も問題さえ起こさなければ

追い出されることはない。

しかしお互い徐々に大学の先生という役割と

自分自身の生き方の違和感を無視できなくなっていた。

 

主人が大学の先生になったのは

英語教育の大学院を出たのを恩師が知って

彼を呼び寄せたらしい。

彼はこの宗教学部の卒業生。別の大学院に行った後

また先生として戻って来る感じになった。

当時はお坊さんだったので

還俗後大学の職にありつけるというのは

かなりの幸運。

実際タイでは

還俗しても世俗の職業にすぐつけるというのは難しいらしい。

 

教えるのは嫌いではないし

学生たちも、あまりガツガツしない性格の彼をよく慕っていた。

 

ただうちの学部は小さな学部だったので

大学改革の流れの中で

予算的に厳しくなってきたり

これは日本でも同じことだが

業績を細かく求められ、報告させられるようになってきた。

 

業績を出していくのは

プロとしてどの世界でももちろん大事なこと。

 

大学の先生というのはいろんな学会に入って

そこの雑誌に投稿したり、発表したりして

業績を積んでいく。

 

私もそうだが

だんだん何のためにこの文章を書いているのだろう?

誰が読むのだろう?

誰が必要としてくれているのだろう?

 

との思いが芽生えながらも

それを打ち消しながら頑張って書いている感じになってきた。

 

主人も似たような思いだったようで

ある日こう言う事を話してくれた。

 

「確かに大学にいたら

 先生という職業だからみんなに自慢できるし

 安定しているよね。

 だけど僕は、自立した生き方をしたいと思っているよ。

 経済的に今より苦しくなったとしても、ね。

 どんな事をしても生きていけると思うんだ。

 

 大学の先生という役割の中で求められるのは 

 自分が持っている能力の中の一部分だけ。

 その他の部分は求められない。

 

 だけど一旦そこから離れたら

 自分の持っているあらゆる能力が発揮できると思う。 

 

 例えたら、工場で飼われているニワトリと、森のニワトリ。

 工場で飼われているニワトリは

 卵を産ませることだけ目的で

 他の能力は求められていない。

 

 だけど森で自由にいるニワトリは

 自分で餌を探しながら

 いろんな場所に行って卵を産むことだけじゃない

 体験をしているはずだと思う。

 

 餌を探すのにはリスクが伴うけれど

 それでも僕は森のニワトリになりたいんだ」

 

 それを聞いて

 私も納得。

 

 私自身はまたちょっと違う理由だったけれど

 大学という組織を離れるという流れが急速に強まった。

 

 そして主人は

 次の自分たちの生活の糧を農業。

 とりわけ比較的初期投資の少なくて済む

 キノコ栽培をすることに決めた。

 

 

やりたい・やれる・求められる~タイ仏教の翻訳という仕事~

 

 私自身が大学を辞めたいと思った

 最も大きな原因は

 自分が本当にやりがいを感じるのは

 別のところにあると気づいたからだった。

 

 大学が私に求めるものは

 日本の宗教や仏教について

 タイの学生たちに伝えていくということ。

 

 これはこれで新たな発見があるので

 面白かったし

 授業の中だけではなく

 タイの学生たちを連れて

 日本の宗教(神道・仏教・新宗教など)を

 訪ねるスタディツアーも行っていた。

 

 彼らが実際に日本に行って

 体験をサポートすることはとてもやりがいがある。

 

 参加した学生の中には、

 その後も日本語を学んで、別の奨学金をとって

 日本に再び学びに行く者も出てきた。

 

 日本への憧れが強いタイの学生たち。

 そして今はノービザでも15日間は

 訪日できるようにもなったので

 ますます学生でも行きやすくなっていくだろう。

 

 そんな流れもあり

 タイの人に日本のことを紹介するということは

 私ではなくてもできると思ってきた。

 

 よく私はいろんな人から

 「日本語教えて下さい」

 

 言われるのだが、

 これがまた私が最もやりたくないこと。

 

 私が日本人なので

 大学の授業も持たないかとも何度も言われたが

 すべて断った。

 

 言語は手段だと思っているので

 その言語が好きで教えるのが好きな方から

 教わった方が断然いい。

 

 そう思っているので

 これやればお金は入るなあ、、とも思うが

 私はやらない。

 

 大学で教える一方で

 タイの仏教に関するタイ語からの日本語訳。

 

 これは同じ言葉を扱う上で

 自分の役割だと思うようになってきた。

 

 これまでも、ちょこちょこやってきていたが

 今年後半あたりから

 パイサーン師という私の尊敬するお坊さんの

 説法を訳してブログにあげたら

 思った以上の反響があって驚いた。

 

 またカンポンさんの言葉も折に触れあげていて

 私自身も気づかされることが多かったので

 主にパイサーン師、カンポンさんの言葉を

 日本語に訳すという仕事に

 専念したいという気持ちが増していった。

 

 翻訳という作業は

 ただ言葉だけを訳すのではない。

 その言葉に反映されている背景や文化までも

 引っ張りだされてくる。

 そして翻訳する私自身もまた

 写し出すものとなる。

 

 これで完璧などということのない

 終わりのない作業ではあるが

 自分がやりたいと思うことであり

 自分が今やれるだけの能力を備え

 そしてかつ

 いろんな方がその説法を読みたいと言ってくださる。

 

 やりたい・やれる・求められる

 

 の3つが揃っていると感じた。

 

 しかも主人は日本語はできないけれど

 タイ語・英語・そしてお坊さん時代に培った

 パーリ語ができ

 私ではフォローしきれない原始仏教の細かな言葉や

 タイ仏教のスタンダードな教えが叩き込まれている。

 

 何かあった時に

 すぐに彼に聞けるというのも

 心強い。

 

 そんな環境が整っている今

 これに打ち込まないことがあろうか!

 という気持ちになってきた。

 

 タイの学生や大学の先生たちに出会ったからこそ

 やはり日本にはあまり伝わっていない

 タイ仏教について伝えていきたい

 そう思っている。

 

カンポンさんの人生~肩書きがないという最強の生き方~

 

 そして最も影響を与えてくださったのが

 今このライトハウスにいらっしゃるカンポンさん。

 

 カンポンさんは元体育教師だったが

 24歳の時に飛び込み事故で失敗し

 全身不随に。

 その後苦しみを抱えながら生活するも

 仏教そして「気づきの瞑想」に出会い

 「今ここ」への気づきの実践によって

 体に障害はあっても、心まで障害をもたなくていい!

 と悟られ、今ではお坊さんも

 彼に仏法を学びに来てしまうという存在となった方。

 

 彼の半生と瞑想からの学びを

 翻訳して2007年に日本でも出版させてもらった。

 

 彼は今、事故の時の手術の輸血が原因となった

 肝炎から肝臓癌になり

 ターミナルステージに入られ

 いつこの世とさよならしてもおかしくない状態だ。

 

 ただ心は本当にいつもと変わらず

 体調のいい時には訪問者とも楽しく話して

 法を説いてくださる方だ。

 

 彼と出会ったことで

 私の中の固まったものの見方が

 どんどん崩されて行っている。

 

 翻訳の本を出そうとした時

 出版社の方から

 奥付のカンポンさんの肩書きをどうしましょうか?

 と質問されたことがある。

 

 それまでは気がつかなかったが

 さて、困った。

 

 実はカンポンさん

 

 肩書きが、、、、

 

 「ない」

 

 

 体育教師、、は元の職業だし

 瞑想の先生、、、でもないし

 障害者、、だけでもないし、それは「身体」だけのことだし

 お坊さん、でもない。

 

 一応、本には経歴を簡単に記したが

 

 肩書きがない!ということに

 私は驚いていた。

 

 そしてカンポンさんが

 いろんなメディアに登場するようになって

 タイの人が何と彼を紹介しているのかと

 注意深く見てみるようになった。

 

 あるテレビのインタビューでは

 彼のことを

 

 「苦しみを超えちゃった人」

 

 と、紹介していた。

 

 確かに!

 

 そうだよねー、と思った。

 

 職業ではもはや肩書きが書けない。

 

 事故によって一旦

 彼の生きがいだった仕事も

 彼のそれまでの友達も

 彼の身体の自由さえ失った

 失ったカンポンさんだったが

 

 そうしたものをも超えた

 自由な存在なっちゃったのだった。

 

 肩書きがない、書けない存在

 

 そんな人がいるのだ、この世には。

 

 そしてそれがどんなにかパワフルで

 最強な生き方であるかを

 まざまざと痛感されられている。

 

 私にラッキーにも与えられた

 大学の先生という美味しい役割は

 その役割を本当に必要としている

 若い能力のある方に譲ろう。

 

 そう、心から思えたのは

 カンポンさんの

 肩書きがない人生に出会えたからだ。

 

 たくさんたくさん

 肩書きの恩恵を頂いたのだ、私は。

 十分すぎるほどに。

 

まとめ~新たな場を、そして心を耕しながら~

 

 11月から本格的にカオヤイに移住し

 12月からここライトハウスに完全移住。

 

 電気も十分にはないし(太陽光発電)

 水も時々断水(これを書いている今もなぜか断水)

 車がないとどこへも行けない(公共交通機関はここまでこない)

 

 という、不便な生活になった。

 

 しかし、便利さと幸せは

 比例しないのだと実感。

 

 不便だと、いろんな策を考え始める。

 

 どうやったら最低、大丈夫か。

 どうやったら今のベストか。

 

 もちろん長期的な視野での考えも大切だが

 今ここでどうするかという

 瞬時瞬時の判断に

 気づきが間に合うようになっていっている。

 

 また私一人ではなく

 家族も一緒。

 

 そしてライトハウスで働いている

 スタッフさんたち。

 

 ここのオーナーであるエーさん。

 そしてターミナルの状態のカンポンさん。

 

 いろんな方々のつながりの中で

 自然と共に生きていく大切さを実感している。

 

 主人のキノコ栽培。そして

 畑を耕すことも毎日の日課。

 

 キノコの家と畑まで、住まいからは自転車で1分。

 

 息子はそこらじゅうが自然のおもちゃだらけの

 天国状態。

 

 私は夜8時に寝て、午前2時に起き

 翻訳の仕事。

 

 夜明けを感じながら言葉を紡ぐ毎日だ。

 

 かなり生活のスタイルは変わり

 不便さは増したけれど

 本当に楽しい。

 

 このライトハウスは、まだまだ始まったばかり。

 新しいこの場を耕しながら

 私自身の心もたくさん耕していくこと。

 

 そんなことを今思いながら

 振り返っている。

 

 今年1年お世話になりました。

 どうぞ良いお年をお迎えください!!